福田和也に学ぶ。すべての保守言論人が出直すべき理由とは「吟味する精神の欠如」【平坂純一】
「吟味の人 文芸評論家・福田和也」を語る
さて、本書『福田和也コレクション1 本を読む、乱世を生きる』は福田和也氏の上品でない保守を標榜しつつ、堆積した知性が絡みあうことで、ある総合性を吾らに突きつけ負託している。内容については先に鈴木涼美氏が解説、二度書いても詮無ない。
福田和也的な物の見方、そして、そのひとつひとつに「吟味する精神」が宿っていることを僕は指摘したい。
本書冒頭、バルザック論や川端康成論を繙けば、書物と書き手それぞれに対する愛情が伝わってくる。ひとつは鈴木氏指摘されるように作者と作品、分離するか問題だ。早稲田で渡部直己氏から口酸っぱく分離を強要された僕に、福田氏的言説は対抗的近代主義(コントル・モデルニスム©A.コンパニョン)の態度を思わせる。わざわざ、「あちら」へ喧嘩しに赴く福田氏の営為は『皆殺し文芸批評―かくも厳かな文壇バトル』(四谷ラウンド)でも確認できる。この「作者・作品の総合的理解」の思想が記されているのが、本書の第二部第四章「色川武大 数えきれない事と、やりきれない事と」で溢れている。
凡百の色川武大/阿佐田哲也論あるが、ここまで博打の神髄に迫るものはない。色川の、傍目から見れば堕落主義とその破綻に、あるバランスを見て取る。彼の身体化された賭け事への固執は、判りやすい結果ではなく、あるフォーム、形を要するというのは卓見である。「トータルという意義が生む無限への抵抗」でありさえすれば、その場の勝ち負けに対する執着は削ぎ落せる。有名な「9勝6敗の美学」の語だけが一人歩きするが、人生なんて大事なことを角力の一場所に見たてること自体が実存を博打と同化させた異常者であり、あまりにも無謀なトータライズ!穿った見方なのだから。
話飛ぶようだが、このトータライズなる見方は福田氏のすべての言説に感じる。本書にはないが、フランス右翼の評伝である氏の処女作『奇妙な廃墟』はフランス史を総観した思索があり、それは本書のフランス文学におけるファシズム擁護者を認めた「セリーヌ 『憎悪と汚辱』」から、五章「絶望の果ての跳躍」の日本浪漫派の保田與重郎論までに溢れ出る。身体性、社会性、そして無限との葛藤、これは総合性に基づいた知性のなす芸であり、保守の神髄である。
第一部第三章「村上春樹を社交的に語る法」はその社会性および社交の問題である。春樹をどう語るか、とりわけ否定的に語るには、やはり芸を要すると云う。僕は性と暴力にしかこの世の救いがない点では判らんでもないなで終わり、高校生の読物として春樹にはろくすっぽのめり込んでいない。かといって東的に「無意識なラノベの走り」と突き放すのも癪である。どう春樹を人に語るか? は読者に与えられた宿題であり、知性を蓄えた者の性格の悪さの出し処であろう。(性格が悪いのは保守の条件である。カネのこと以外で濁りと澱みが判らない右翼には出来ない芸当である)
「フェミ本の意外な効用」も笑って読んだ。人は社会で生きる上で、「イデオロギー」と近接、離反繰り返す。それは「民主主義」「資本主義」すらそうだし、況や「フェミニズム」をや。この頃はLGBTやポリコレ隆盛であり、男女問わない抑圧される/されたことになっている。この時代には判りやすい言葉が流行りがちである。だからこそ、この文で推奨される敵の意図を正確に見定めることが肝要であり、そして、その偏見を偏見として相対化した上で事を計るのは、やはり、その人の総合性を要する。氏の愛する読書の価値もそこにある。
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『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』
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学び闘い抜く人間の「叡智」がここにある。
文藝評論家・福田和也の名エッセイ・批評を初選集
◆第一部「なぜ本を読むのか」
◆第二部「批評とは何か」
◆第三部「乱世を生きる」
総頁832頁の【完全保存版】
◎中瀬ゆかり氏 (新潮社出版部部長)
「刃物のような批評眼、圧死するほどの知の埋蔵量。
彼の登場は文壇的“事件"であり、圧倒的“天才"かつ“天災"であった。
これほどの『知の怪物』に伴走できたことは編集者人生の誉れである。」